いつか王子駅で

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

背中に昇り龍を背負う印鑑職人の正吉さんと、偶然に知り合った時間給講師の私。大切な人に印鑑を届けるといったきり姿を消した正吉さんと、私が最後に言葉を交わした居酒屋には、土産のカステラの箱が置き忘れたままになっていた…。古書、童話、そして昭和の名馬たち。時のはざまに埋もれた愛すべき光景を回想しながら、路面電車の走る下町の生活を情感込めて描く長編小説

やっぱり堀江敏幸はいいなぁ。この作家と同じ時代に生きていて、その作品をリアルタイムで読むことができるというのは、ひょっとしたらかなり幸運なことなのではないだろうか?なんてことを、私のようなミーハーな「趣味は読書。」の人間が思ってしまうほどに、堀江敏幸の作品はいいのだ。で、どこがそんなにいいの?と聞かれても、うまく説明できないのがもどかしい。

作者と、語り手の思考の中に取り込まれるようにして、長い長い一文を味わう。その思考は時に深くなったり浅くなったりぐねぐねと曲がったりするので、少し親しみにくいけれど、親しんでしまえばとても心地よい。小船に乗って波に揺られるのに身を任せているような気持ちになる。懐かしく、なんともいえないおかしみもあって、ところどころ、ふふふと含み笑いをしてしまうようなところもある、やわらかい文章だ。文章を味わうということの喜びを存分に感じられる小説だった。

この小説はお手本のような「純文学」作品だと思う。この小説の中で示される、連綿として続く日常と平行しているかのような文体や、川底に沈む石に光が反射するようにときおり光る情景の描写やアフォリズム(というとちょっときつい感じがするけど)、ストーリーにはほとんど起伏がなく文章だけで読ませてゆくスタイル。そのどれもが純文学的。そして、これが「純文学」であるとすれば、私は「純文学」が大好きだ。